抹消された上杉隆さんにまつわる情報をサルベージしてみました。
生い立ち
- 1968年5月3日、福岡県柳川市、福岡県立病院にて出生。
- 1969年東京都杉並区に引越し、小学校3年生まで阿佐ヶ谷南1丁目の戸塚荘で過ごす。杉並東洋幼稚園、区立杉並第六小学校に通ったため、九州弁は話せない。生まれのみが福岡県なため、のちにFNN九州•沖縄全曲特別番組のMCに眞鍋かをりと抜擢された際は、番組冒頭にて「若干、偽九州男児の上杉隆です」と自己紹介している。
- 1976年東京都新宿区へ引っ越し、新宿区立鶴巻小学校、区立戸塚第一中学校(現•西早稲田中学校)に通学。中学時代、暴走族の集会への参加を強要された経験から、バイク嫌いになったという。なお、子ども時代に父親から煙草を強要されたことがトラウマとなり、煙草嫌いになったことが自著に記述されている。
義務教育以降の自立生活
- 1984年高校進学を希望するものの、父•博通に中学卒業と同時の完全自立を命じられる。自宅で勉強をすることを父親が許さなかったため、勉強は学校ですべて終える必要があった。高校進学における受験料、入学料、学費、生活費のすべてを稼ぐ必要に迫られ、中学生であることを伏せて、早稲田のスーパーマーケット「三徳」、喫茶店「バタカップ」にてアルバイトをしていたことを明かし、生きるためとはいえ、年齢詐称をしていたことを公式ブログにて謝罪している。中学時代は連日連夜、人数不足となるたび父親の麻雀に付き合わされ、高校受験前夜にも麻雀を強要された時に、母•聖子が初めて怒っているところをみたという(出典;結果を求めない生き方)。その後4月、都立広尾高校の普通科に入学。なお、中学卒業後は実家にて一泊するたびに2000円を要求される状態にあったことから、寝床を確保する必要もあったという。
- 1987年高校卒業後、様々なアルバイトをすることに。新宿のゴルフ練習場「落合ゴルフ」の球拾いを皮切りに、渋谷のカフェバー「タイムマシン」、居酒屋「すずめのお宿」、サントリー「ペンギン’Sバー」、早稲田のバー「沙羅」などでウエイター、高田馬場古本市の警備員、新宿の雀荘のビラ配り、建築コーティング会社の作業現場労働、群馬県のゴルフ場「ルーデンスカントリークラブ」のキャディ、「水上プリンスホテル」のスキー場スタッフ、新宿北郵便局の配達員、高田馬場のカラオケ店「ビックタイム」のデイタイムキャプテンとして人事労務管理、「すかいらーく」山中湖店のキッチンスタッフ、オーベルジュ「オーベルジュ•ブランシュ」の臨時スタッフ、中央高速道路の交通調査員、家庭教師、牛蒡農家での農作業などをしていた。また、大学の受験勉強の勉強道具は、先に大学へ入学した友人らが使用したものを送ってもらうよう頼み込み、郵送してもらったものを使用していたという。国公立の大学入学を目指し信州大学と筑波大学を受験したものの、一次試験の数学で大失敗してしまい、途方にくれていたところ、市立である都留文科大学の存在を知り、願書を提出。なお、純文学を愛好していたため、信州大や筑波大同様文学研究をするつもりであった。願書を書き終えた時に英文科であったことに気がついたものの、疲れ果てており書き直す気力が出ず、英文科を受験し、入学。
大学時代からNHK勤務まで
- 1988年入学後、大学にゴルフ部がなかったことからゴルフの出来る環境作りに奔走し、ゴルフ同好会を結成する。山中湖ホテルのパターコースの芝生の美しさに魅せられ、「あそこで練習させて欲しいのですが、その代わりに雑草抜きでも何でもします。できたらパターコースでアルバイトさせてほしいのです」「他の仕事でもかまいません。清掃でもベッドメーキングでも、皿洗いでもなんでもやります。いや、給料も要りません。その代わりゴルフの練習をさせてほしいのです」と使用させてもらうために交渉をし、一度は断られるも、翌日になって、働くことを条件に、大学へ通う前の早朝の使用許可を得る。かくして社員と同じ条件で富士屋ホテルチェーン「山中湖ホテル」の社員寮に入寮。非正規雇用ながら一部の社員より多くの給与と権限を付与されて勤務することとなり、自身のことを拾ってくれた当時の総支配人であった譲原尚行氏には感謝のしようがない、と語っている。
- 1992年春、NHKを受験し、夏に内々定、秋には記者職として正式内定。なお、前年の受験では落ちており、新卒でなければ採用されない仕組みのためにわざと留年しており、この年の秋には単位を取得済みであったため、10月より来春採用予定者として、渋谷のNHKで非正規スタッフとして勤務を開始。朝のニュース番組『モーニング•ワイド』のリライター業務が担当であった。
- 1993年3月、大学事務局が学内にコンピューターシステムを導入し、システムエラーによって30名ほどの学生が単位漏れとなり、そのうちの一人となる。該当単位であるドイツ語の教授は「授業にも出て単位は取得済みであり、卒業に問題は無い」とし、他の教授も当然に卒業を認めていた。しかし、地方国公立大学の事務局長には文部省からの天下り役人が就くことが決まっており、自らのミスをなかったこととするために『ルールはルールだから』といって学生側の問題にすり替えが行われ、3月の卒業権利を剥奪されている。そうした理由を理解していたNHKの担当者は「たとえば3ヶ月後に単位が取れるというのなら、6月にでも改めて正式採用することにしよう」とNHKへ掛け合った。しかし、大学事務局と学年主任教官は責任追及へ発展させないため、頑として認めなかった。こうした経緯によって、宙ぶらりんの身分のままNHK新番組「おはよう日本」にて働き続けることとなる。今井義典、桜井ようこ、黒田あゆみ、草野満代、平野啓子、小谷真生子、小平桂子アネット、有働由美子らのアナウンス陣の傍で手伝うことが出来た経験を、自身のテレビメディアにおける仕事の得難い財産となったという。なかでも、澤田勝夫氏との出逢いだけは忘れられないと語っている。上杉氏にとって人生の恩人であり、『たとえ損をしても、曲がったことはすべきでないという姿勢を身を以て教えてくれた人生の師」であるとしている。
秘書時代
- 1994年冬、鳩山邦夫事務所に入所。一度は不採用となったものの、しばらくして採用。直後の結党大会が議員秘書としての初仕事である。当時、同部屋の秘書は細川護煕事務所の松野頼久氏があり、他の事務所では最初の兄貴分にあたる。その後、自宅番、夫人の運転担当、代議士運転随行、国会担当、事務局次長、広報担当、報道担当などを歴任。5年後の都知事選出馬をもって円満退職(最終的には公設秘書)。上杉氏にとって唯一無二の「政治の師」は鳩山代議士一人であり、哲学、数学、自然科学、環境問題、食に関するこだわりまで、感謝しきれないほど多くのものを教わったとしている。なお、鳩山氏は2016年4月2日に生放送情報番組敦と隆の週刊リテラシーに出演した際、番組冒頭にて「彼はね、案外視野が広いんですよ。目が離れているでしょ、視野が広いんだよ、カメレオンみたいな感じで。」と評価している。
ニューヨークタイムズ東京支局時代
- 1999年夏、45日間のインターンを経て、ニューヨークタイムズ東京支局の取材記者(リサーチャー)となる。当時の東京支局長は1990年に妻のSheryl WuDunnとともに1989年の天安門事件に関する報道でピューリッツァー賞報道部門国際報道賞を受賞したほか2006年にダルフールにおける虐殺事件に関する執筆で二度目の受賞となる論説賞を受賞をすることとなったNicholas Kristofあり、次に、2016年現在ピューリッツァーの総本山と評されるコロンビア大学ジャーナリズム大学院の教授でもあるHoward W. Frenchから三年間「journalismとはなにか」を徹底的に学ぶ。同僚にはSheryl WuDunn、現在International Houseを務めるCalvin Sims、Stephanie Strom、James Brooke、Ken Belsonなどがいる。上杉氏の英会話が酷すぎるため、ニューヨークタイムズの歴史上初めて英会話のベルリッツに通った唯一のリサーチャーであったという。
フリーランスとして独立するまで
- 2000年デビュー作『石原慎太郎 5人の参謀』(小学館)を刊行。ノンフィクションとしては異例の17万部以上を売るベストセラーとなった(文庫本とあわせて)。
- 2002年フリーランスジャーナリストとして正式に「ニューヨークタイムズ」から独立。
学歴[編集]
- 1987年 : 東京都立広尾高等学校卒業
- 1994年 : 都留文科大学文学部英文科卒業
職歴[編集]
- 1992年 :NHKに記者職として正式内定。翌年からの採用予定者として研修開始。朝のニュース番組「モーニング•ワイド」のリライター業務に就く。
- 1993年 ;大学側が卒業単位漏れの過失を認めなかったが、事情を正確に把握していたNHKの採用担当者が勤務を認め、内定保留状態という形をとって勤務開始。新番組「おはよう日本」にてテレビメディアにおける得難い学びを得る。
- 1994年9月 - 1999年3月 :衆議院議員鳩山邦夫事務所スタッフ。最終的には公設秘書となる。鳩山の都知事選出馬後、円満退職。
- 1999年7月 - 2001年7月 : ニューヨーク・タイムズ東京支局にて45日間のインターンを経て、リサーチャー(取材記者)となり、Nicholas KristofやHoword W.Frenchの下、国際基準でのジャーナリズムを学び、ニューヨーク・タイムズ取材記者として週刊誌などで執筆開始。
- 2002年 : フリーランスのジャーナリストとして活動を始める。
- 2003年 : 中川昭一政調会長に許可を得て自民党平河クラブにて質問。
- 2008年 :「ジャーナリズム崩壊」(幻冬舎)出版。民主党党大会においてネットメディアの参加を実現。ニュースキャスターとして日本で初めてアクティブにPCを持ち込んで生放送を行う。
- 2009年 :3月24日、民主党の小沢一郎代表から記者クラブ解放の原質を取り、記者会見オープン化を大きく前進させる。9月鳩山由紀夫内閣発足後、外国人特派記者等の一部の記者は新たに会見に参加したが、ネットメディアは事実上締め出されていた点を、公約違反であるとして糾弾。官邸、与党、各省庁記者クラブを、フリーランス•一部メディアに開放。「記者クラブ崩壊」(小学館)を出版。
- 2010年 :内閣記者会見開放を正式に申し入れ(幹事社:共同通信、フジテレビ)
- 2011年 : 自由報道協会を創設し代表となる。同協会は小沢一郎氏、堀江貴文氏、元海上保安官の一色正春氏、原子力発電所設計者の上原春男氏、ダライ•ラマ法王の記者会見などを実現。
- 2011年 : 年内でジャーナリストの無期限活動休止を宣言し、翌年以降「元ジャーナリスト」を自称するようになる[2]
- 2012年 : 株式会社NOBORDER 代表取締役設立。
- 2013年 : 一般社団法人の代表の任期は選任後二年以内に再任手続きを要するが、再任はせずNOBORDERの運営に専念することを選び、自由報道協会代表を辞任[3]。2016年現在は副代表となっている。
- 2013年6月 : インターネットニュース番組「ニューズ・オプエド」の放送を開始。
- 2014年6月 :一般社団法人日本ゴルフ改革会議 を創設。
人物[編集]
国内の大手マスメディアによる談合や横並び・画一報道の危険性を喚起している。記者クラブ問題と並び、官房機密費問題に対しても斬り込む。著書「ジャーナリズム崩壊」の中では「情報源を明示しない悪癖を許してきた結果が日本のジャーナリズムを貶めている」「他人のものを盗まないのは当然」と指摘している。また、日本のメディアにOp-Ed(OppositeEditorial=社説の反対意見)という思想の多様性を担保するための機構が構築されていない状況を危惧し、誤報や煽動的な情報が流れた際に中庸性が確保できているとはいい難い形にならざるを得ない記者クラブの機構の死角を無くしていくことを求め、「多様な価値観」を座右の銘としている[4]。
岩井俊二監督映画friend after 3.11において、「これからは上杉さんのことを信じることにします。と言われるんですね。止めてください、と、必ず。私も信じないで欲しい、と。それはたまたま合っていたんだけど、またこっちばっかり信じたら、同じことですよ。僕も間違えますし。NHKも、今回は間違っても、合っていることは多数あるわけです。個々の人達が、情報というのはいっぱいあるのだと、価値観は多様なのだと。そのいろいろな考えのもと、社会は形成されているんだということに気づけば…それが、その作業を何らかの形で手伝うのが、ひとつの、自分のやる仕事かなぁと思ったので」と発言している。
日本にはマスコミやジャーナリスト自身が自己検証・自己批判を行うことで中庸性を確保していく余地があるとして、リテラシーにまつわる倫理観を早急に整備してゆく必要性を訴えている(欧米では訂正欄が確立していて自己検証を行う)。また、日本では客観的報道と謳いながら特定政党を肯定する報道が行われることに苦言を呈しており、生身の人間が関わる以上100%中立性を保った報道は困難であることを謙虚に受け止め、米国の新聞のようにどの政党を支持するか表明して報道する必要があるのではないかと示唆している。その上で、「政治権力との距離感を忘れた派閥記者」などと特定政党を支持するような記者を批判しており、記者も国民の一人なので特定の政治家や政党を支持するのは自由であるが、個人的思想を透明性を求められる報道に持ち込むのは避ける心構えが必要があると指摘している。
小学生時代は、新宿区内で軟式少年野球チームでサードを守り、キャプテンを務めていた。小学校6年生当時の夢は「野球選手」だったが、卒業アルバムに記すのに皆と同じでは面白くないと思い、兼高かおる世界の旅を観て世界を旅する職業に憧れ、「ジャーナリスト」と書いたという。しかし、中学校入学後はサッカー選手や講談社のブルーバックスに手が伸びすばる望遠鏡やゴルファーになりたいと考えていた。また小学校時代には書道で2回の入賞歴がある。
ゴルフが趣味であり、『ゴルフダイジェスト』などのゴルフ専門誌にも寄稿している。『ゴルフが本業、政治はときどき、を目指してます』と、ゴルフジャーナリストを自称することもある。大学時代には学内でゴルフサークルを設立、代表を務めた。
== 活動や発言について ==
ジャーナリズムの五大原則の提唱[編集]
情報の信憑性と質を高め、報道される側の反論権を保護するためにも、かねてから国内へのジャーナリズムの五大原則の導入を提唱している。
1、by line...バイライン(署名)を入れること
2、source...ソース(情報源)を可能な範囲で提示すること
3、credit...クレジット(引用•参照元)を示すこと
4、correction...コレクション(訂正欄)を設けること
5、op-ed...オプエド(社説の反対意見)を掲載すること
上記の内容は情報番組『敦と隆の週刊リテラシー」や自身のニューズ番組「オプエド」、自著「ネットでニュースを読むとバカになる」で何度も紹介されている内容である。
また、ジャーナリズム五大原則は、情報を扱う上で、以下のように活用することが出来る、と、ツイッター上で話題になる。
1、署名 これが無い情報を疑う
2、情報源 これが曖昧な情報を疑う
3、引用元 これが曖昧な情報を疑う
4、訂正欄 これがない情報は一方的である可能性がある
5、オプエド 異なる意見を考慮
そのことを踏まえ、「小中高の情報の授業の中へ、情報社会•ネット社会に安全に適応できるよう、上杉隆氏のジャーナリズム五原則を盛り込んで欲しい。ジャーナリズム五大原則に挙げられている点を押さえるだけで、国内の言論のレベルは飛躍的に上がっていく。指導要領の見直しより先に五原則を盛り込む方が国力も伸びるだろう。粗悪な量産記事や、裏取りの無い印象論ではない言論が必要である。上杉隆氏が提言しているジャーナリズム五原則を徹底していくと、結果的に我が国の倫理や道徳の問題まで整備されていく可能性がある。どういった情報に確度を認めるかについての基準が明確になるほど、ネット空間の情報は質によって振り分けられていく。信用度5つ星の情報にこそ価値がある。」といった視聴者の声がツイッター上にあがっており、長岡市議会議員の池田あきひろ議員はtwitter上で上杉氏の五大原則について視聴者が説明している呟きに対し「情報化社会において、大事な視点だと思います。自分自身も対応していきたいと思います。」と発信している。
東日本大震災の際にラジオでかけたアンパンマンマーチへの反響[編集]
2011年3月11日に発生した東日本大震災の直後、『これ以上、津波の映像をみたくない』という被災地の声を受け、上杉氏がラジオ番組TIME LINEでかけた「アンパンマンのマーチ」「上を向いて歩こう」「トトロのうた」「希望という名の光」「プリキュア」に励まされたという声が多く寄せられていた。3月13日の16:21に「アンパンマンのマーチ」をかけた時には、避難所の体育館に避難している母親からのメールが紹介され、「子ども達が体育館で笑い、踊っています」「今、こどもが踊っています。。」「子どもが笑うと救われる」「上杉隆さんの落ち着いた声に癒されます」「上杉隆メンのかけるアンパンマンのマーチに涙。優しさってこういうことかも」「上杉隆がMCしてラジオやってます。ラジコでも聴けます。テレビとは違った目線で放送してくれています。音楽を流して勇気を与えてくれています。これがグローバルスタンダードな報道なのかな。」「テレビの煽りのような報道に疲れちゃった人、TOKYO FMいいよ。ジャーナリスト上杉隆さんがずっとやってる。被災地で必要な音楽を流してる。上を向いて歩こう、アンパンマンのマーチ等。老若男女に必要な音楽を。」「これは、マスメディアに属さない上杉さんならではだと思います。」こういった反響が多くあった。なお、14:15に「希望という名の光」16:00に「上を向いて歩こう」をかけている。 上杉氏は「子どもが笑えば大人は勇気が湧く」「それで、落ち込んだおじいちゃんには上を向いて歩こう、子どもたちにはアンパンマンの歌を、と。」という思いから、これらの曲をかけたことを打ち明けている。 2013年10月に当時のことを振り返った視聴者が「【メルトダウン】という言葉をどこよりも早く知った。【アンパンマンのマーチ】【希望という名の光】を被災地に向けて届け、【歌の力の強さ】を教えてくれた番組...忘れません」と当時の心境を発信している。(出典;twitter)
2011年3月12日、上杉氏は原子力保安院からの発表に加え、福島第一原子力発電所•3号機の設計者である上原春男氏に確認を取り、福島原発が炉心溶融(メルトダウン)している可能性を指摘した。このことで、菊池誠氏が「デマじゃないだす」と上杉氏を嘲笑する発言をしたことを皮切りに、江川紹子氏や小田嶋隆氏らが炎上を煽動した。なお、後述する2016年2月24日のメルトダウン基準発覚後、菊池誠氏は「一週間ほどいなくなります。ツイートもしないと思います。ていうか、たぶん見ないと思います。それでは、みなさんお元気で」と発信し、その姿勢をネット上で批判する声が多く上がっている。 江川紹子氏に至っては、ジャーナリストの常岡浩介氏に対して上杉氏への批判を強要し、常岡氏は「内容は、ます上杉さんを批判。続いて、『お前も、上杉を批判しろ』と意味不明な強要。それを拒否すると、今度は延々、僕に対する罵倒と、『上杉猊下ばんじゃーい』などの侮辱。他人が読んでいないところでは、こんな文を書く人だったのかと、衝撃を受けた。(中略)無名でビンボなぼくなら脅しに屈するだろうと思ったか」と発信している。 また、町山智浩氏は「わだば、プロのタカシハンターになる!」と発言し、「twitter タカシハンター」と銘打たれた、銃を持った町山氏が上杉氏を仕留める構図に「狙ったタカシは逃がさない」と書き込まれた画像を拡散し、ネット上での私刑を煽動した。しかし、後述するメルトダウン基準マニュアル発覚以降、当時の上杉氏への発言内容について再検証しはじめたアカウントに対し「単にもう関わりたくないだけです。あなたが毎日何回も私についてのツイートし続け、それを上杉隆がRTするので疲れています。私についてのツイートをもうやめてもらえると本当に助かります。そうしてもらえたら私は上杉について一切ツイートしませんのでお願いします。」と発言している。
2016年2月24日、新潟県の原子力発電所の安全管理に関する技術委員会による調査から、東京電力社内に炉心溶融=メルトダウンの判断基準を示すマニュアルが存在していたことが判明した。 また、「元NHKディレクターで、現在は自称経済学者の池田信夫氏は3月14日のブログで「メルトダウンは起こらない」と発言し、「メルトダウン(燃料の大部分が溶解した状態)と報じるジャーナリストらの発言を『デマ』であると吐き捨てています。デマはどちらであったのか答えは明らか」といった2016年4月11日、東京電力の岡村祐一原子力立地本部長代理が社内マニュアルに記載されている炉心溶融(メルトダウン)の判断基準を、事故当時、個人的な知識として把握していたことを明らかにした。「私は(メルトダウンの判断基準を)把握していたが、(事故当時は)直接状況をコントロールする立場ではなかった」と発言している。 高橋裕行氏は「福島第一原発の炉心溶融の可能性はまずはじめに3月12日に原子力保安院から発表されている。上杉隆さんは、それをすぐにツイートで流した。そして各新聞でもその可能性は報道された。ところがその後、東電は炉心溶融を否定。言葉を弄びながら5月15日になってやっと認める。初めは炉心溶融の可能性を報道したマスコミも、東電が否定してしまうとそこで追究をやめてしまい、今度はメルトダウンを疑う人々は上杉隆さんをはじめ、デマ扱いされる。しかし電源喪失による崩壊熱の上昇から炉心溶融が起きる可能性は、震災前から国会で共産党の吉井英勝議員が追及していた。全電源喪失すれば原子炉を冷却できない。冷却できなければ崩壊熱により燃料は溶ける。その結果、炉心溶融が起きる。こんあことは専門家でなくともちょっと考えれば分かる。ところが、東電が炉心溶融を認める5月中旬まで、炉心溶融やメルトダウンを口にする者はデマゴーグ扱いされた。」と発言している。(出典;twitter )
なお、2016年2月24日のメルトダウン基準マニュアル発覚の報を受けて、5年間に及び明確な悪意をもって誹謗中傷を受けてきた上杉氏に対し、元週刊朝日編集長である山口一臣が名義人として、2016年5月19日に「上杉隆君の名誉回復を祝う会」が憲政会館で開催することとなった。発起人には鳩山邦夫、田原総一郎、三枝成彰、加瀬英明、西川伸一、團紀彦、小沢一郎、中尾ミエ、鳩山由紀夫、松井清人、玉木正之、吹浦忠正、坂本正弘、鈴木宗男、奥田瑛二、下村満子、勝俣伸(富士屋ホテル代表取締役)、猪瀬直樹、鈴木隆道、蟹瀬誠一、和田秀樹、吉田照美、宮内章、中村信隆、藤本順一、鈴木邦子、味方泰宏、古賀茂明、安藤和津、大貫康夫、吉崎達彦、桐島ローランド、紀里谷和明、堀江貴文、宮城泰年、大宅映子、波頭亮、重村智計、佐藤栄佐久、今川憲英、松沢成文、井沢元彦、古川元久、馬淵澄夫、原口一博、川内博史、北澤俊美、木内孝胤、寺脇研、蟹瀬令子、藤田幸久、重信メイ、田村尚之、梅本龍一、長田渚左、野村誠一、木村三浩、武藤真澄、Kダブシャイン、高井英樹、大川貴史、神領貢、佐藤潤一、田中康夫、タケ小山、室井佑月、ハワード•フレンチ、がいる。(出典;上杉隆事務所公式ウェブサイト)
原口一博議員による東日本大震災以降の上杉隆パージへの発言[編集]
2016年4月27日のニューズ•オプエド出演の際、原口一博議員が「東電の発表の嘘を上杉さんずっと追究したんですよ。それを邪魔した記者がいっぱいいたんですよ。あの、メルトダウンしてるんじゃないかと言うことも、一番最初に上杉さんが言って、『いや、違います』と。で、汚染水を海に流してるんじゃないかと、『そんなことありません』と。全部、事実だった、ですね。それを、僕も言われたんですよ。上杉隆と付き合うとお前も嘘つきだと言われるからやめろと。どれだけ言われたか。でも、それでも、(上杉氏が)【今だけ金だけ自分だけ】じゃないから、みんなが、ああ上杉さんの言うことは本当だ、と、今は証明されましたよ。」と発言している。(出典;インターネット情報番組「ニューズ•オプエド」2016年4月27日放送)
TVが原発事故後に住民を置いて30km圏内から逃げたと発言しデマ扱いされるも、5年後に事実であったことが証明される[編集]
2016年3月7日、テレビ朝日•福島放送制作の番組テレメンタリーにて「その時、『テレビ』は逃げた』が報道され、上杉氏の発言が事実であったことが証明された。
「福島・郡山に人は住めない」というミスリードのためにバッシングを受ける[編集]
2012年3月14日付の夕刊フジに掲載された記事の見出し「福島・郡山に人は住めない」は、上杉の発言ではなく、記事を執筆した者が付けたタイトルである。実際には上杉氏が発言したのは「福島市や郡山市には人が住めないほどの高線量のスポットもある。」というものである。この印象誘導によって、上杉氏は各方面から猛烈なバッシングを受けることとなった。後に夕刊フジは、この発言は実際にはなかったと、紙面で訂正している。
不正測定されているという指摘がデマであると拡散される[編集]
また福島市役所前の空間線量が「福島民報」や「福島民友」では0.6マイクロシーベルトになっているが同じ日の同じ場所で上杉隆が自分で計測したところ、郡山市役所前の空間線量が1.8マイクロシーベルトを超え、不正測定が行われているのではないかと報じた。2月14日のメルマガでは郡山市役所の空間線量が1.0 - 1.3マイクロシーベルトだと書いているが、3月14日の夕刊フジではそれが1.8マイクロシーベルトを超えたと書いている[5]。この報道によって、上杉氏は江川紹子や菊池誠らから「デマ発言である」とされ、彼らは自らの支持者を煽動する形で上杉氏をネット上で吊るし上げている。
なお、この問題は2012年10月5日に、矢ケ崎克馬・琉球大学名誉教授が記者会見にて「放射能モニタリングポストの実態調査」という調査結果を報告。調査報告書には「本検証委員会の文科省設置のモニタリングポストの実地確認では、ほぼ90%以上の設置場所で除染が施されていました(矢ケ崎,2012)」とある。同年10月6日、記者会見内容として「値を低く見せるために、モニタリングポストの周りは除染を徹底したり、数値を操作しているのではないか(朝日新聞,2012)」という発言が取り上げられている。